「サロマ湖」は北見市常呂町、佐呂間町、湧別町の3市町に跨る北海道で一番大きな汽水湖(海水)です。ここ近年、サロマ湖周辺の町では丹頂鶴を見かけるようになりました。但し野生動物です。必ずしも見られるとは限りません。オホーツク旅行情報はオホーツクドットコムをご覧下さい。
世界文化遺産登録?常呂遺跡 オホーツク文化 北見市
2020.09.21
世界文化遺産登録?常呂遺跡 オホーツク文化 北見市
世界文化遺産登録?常呂遺跡 オホーツク文化 北見市

この常呂貝塚は、常呂川の常呂大橋から内陸へ行った所にあります。文面は北見市常呂町栄浦にある常呂遺跡・オホーツク文化をご覧下さい。写し書きしてあります。常呂貝塚は縄文時代中期(約4000年前)です。
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北見市が世界文化遺産登録に動いているのは、常呂町の知人に聞きました。管理者、「嘘だべや~?」と思い調べてみたら確かに北見市役所のHPに載っていました。以下、北見市役所へのリンクです。

世界文化遺産を目指す常呂遺跡
世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る提案書
「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」について

国指定史跡「常呂遺跡」
ようこそ!ところ遺跡の森へ
オホーツク文化
ところ遺跡の館展示案内:常呂の遺跡の特色とその時代

・続縄文時代:約2400~1400年前
・擦文時代(さつもんじだい):約1400~700年前
・オホーツク文化:約1500~800年前
・アイヌ文化:擦文時代が終わった14・15世紀以降

年代だけだとどうも分かりにくいので、この年表を見て理解ができました。

続縄文時代と擦文時代の間にオホーツク文化が重なっています。擦文時代にはトビニタイ文化が重なっています。

このオホーツク文化期の遺跡がサロマ湖周辺、常呂川河口付近から出土しています。遺跡はオホーツク海沿い、北はサハリンから常呂、標津、千島列島に長く分布しているようで、海での暮らしに特化した海洋民族・オホーツク人と考えられています。ただ約800年前頃、突然姿を消したためオホーツク文化の終わりは謎だそうです。

2014年7月31日
世界遺産に登録されるには「暫定一覧表」に登載される必要があり、文化庁より提案を基に選定するとの方針が示されたそうです。標津町も含まれます。

「Go To トラベルキャンぺーン」で常呂遺跡、見に来ませんか?
常呂遺跡群 北見市常呂地域はオホーツク海、サロマ湖、常呂川をもつ自然が豊かな地域です。縄文文化から続縄文文化、そして擦文・オホーツク文化を経てアイヌ文化まで人々は海、湖、川の魚介類や周辺の動植物が豊富なこの地域で暮らしていました。このことは遺跡の規模や多さからも明らかです。
常呂遺跡群

北見市常呂地域はオホーツク海、サロマ湖、常呂川をもつ自然が豊かな地域です。縄文文化から続縄文文化、そして擦文・オホーツク文化を経てアイヌ文化まで人々は海、湖、川の魚介類や周辺の動植物が豊富なこの地域で暮らしていました。このことは遺跡の規模や多さからも明らかです。

常呂遺跡群 史跡常呂遺跡、ライトコロ川河口遺跡、岐阜第二遺跡、栄浦第二遺跡、常呂竪穴群、常呂川河口遺跡、トコロチャシ跡遺跡、トコロチャシ南尾根遺跡、TK67遺跡、トコロ貝塚 常呂遺跡の発見は(故)大西信武氏の功績によるものです。氏の尽力により昭和31年から東京大学文学部考古学研究室の調査が開始され、現在も継続されています。教育委員会による大規模な調査もおこなわれ北方古代文化の研究上、重要な発見がなされています。
常呂遺跡群

史跡常呂遺跡、ライトコロ川河口遺跡、岐阜第二遺跡、栄浦第二遺跡、常呂竪穴群、常呂川河口遺跡、トコロチャシ跡遺跡、トコロチャシ南尾根遺跡、TK67遺跡、トコロ貝塚

常呂遺跡の発見は(故)大西信武氏の功績によるものです。氏の尽力により昭和31年から東京大学文学部考古学研究室の調査が開始され、現在も継続されています。教育委員会による大規模な調査もおこなわれ北方古代文化の研究上、重要な発見がなされています。

文面は画像を大きくしてお読みください。
しかし、常呂遺跡が我が国最大の集落遺跡とは知れませんでした。こりゃあ間違いなく世界文化遺産登録だな!
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オホーツク地方、世界自然遺産「知床」に次いで、世界文化遺産「常呂遺跡」。北見市、カーリングに次いで世界遺産!!登録されるのが待ち遠しいです。これで北見市、世界中の世界遺産ファンの旅行者で溢れかえるナ!!

北見市役所さん。世界文化遺産「常呂遺跡」の登録、よろしくお願いします。一市民より。

「Go To トラベルキャンぺーン」で常呂遺跡、見に来ませんか?

管理者、今思うと小学生の頃、北見市中ノ島に友達がいたので、畑で縄文土器の欠片や矢じりを拾うのが好きで、拾っては北見市博物館へ良く持って行ったのを覚えています。博物館には確か竪穴式住居や屯田兵開拓時の家もあったような?北見市博物館には良く通っていました。この頃、考古学に興味があったんだろうか・・・?んーーどちらかと云うと技術系なんです・・・
常呂遺跡 オホーツク文化
2018.01.02
史跡常呂遺跡
史跡常呂遺跡

遺跡はオホーツク海の海岸に沿って常呂川の河口からサロマ湖西岸続く砂丘上に位置する竪穴群である。昭和三十二年以来、東京大学が調査をし二千五百軒余りの竪穴住居跡が観察できる。これらの竪穴は縄文文化晩期、続縄文文化期、擦文文化期、オホーツク文化期に属し、東京大学によって十三軒が発掘され、多量の土器、石器、骨角器、鉄器、青銅製装飾品、彫刻品などが出土している。北海道における同種の竪穴の中で最大の規模と密度を持つものであり、擦文文化期とオホーツク文化期の竪穴住居跡が混在している点は両分化の関係を解明する上で重要な遺跡である。
昭和四九年三月一二日に史跡の指定を受ける。
北見市教育委員会

ところ遺跡の森
ところ遺跡の森

「ところ遺跡の森」はカシワ、ナラを主体としてた落葉広葉樹の森林で、120822㎡に及んでいます。森の中には擦文文化(約1,000年前)、続縄文文化(約1,800年前)、縄文文化(約4,000年前)の竪穴住居跡が約138軒あります。住居跡は地表面が大きく窪んでいます。住居の立地は各文化により大きく異なり、擦文文化の住居は台地の西側にある小沢の周辺に多く分布し、続縄文文化の居住は台地の北側周辺にあります。縄文文化の住居は台地の北側」から東側にかけて広く分布しています。一遺跡のなかで各文化の住居の立地が異なっていることはめずらしく、平成2年4月に史跡常呂遺跡として追加指定を受けました。森の中には擦文文化4棟、続縄文文化1棟、縄文文化1棟の復元住居の他、屋根の無い状態の遺構露出展示住居も各1基建設しています。各文化により住居の形、内部構造が変化している点を留意してご覧下さい。

トコロ貝塚
トコロ貝塚

縄文時代中期(約4千年前)に残された貝塚で、道東北部で最大級のものでありカキが主体となっている。昭和33年、34年、36年に東京大学考古学研究室によって一部が調査されたが、貝層の上下に約八千年前から一千年前の文化層が確認されている。貝塚が作られた当時の眼下の平野部は「トコロ湖」とよばれる湖の状態であったらしく今よりも少し温暖な気候であったこともハマグリなどからわかる。
東京大学、常呂町
常呂町教育委員会



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